【黄原亮司インタビュー】常に変化し続けること。逆境をエネルギーに変える強さと情熱を持つことが大切です。

⽇本の⾳楽シーンを⽀えるミュージシャンを「カナデルーム」がご紹介するPLAYERʼS FILE。第7回⽬は、日本屈指のオーケストラ・東京交響楽団で活躍するチェリストの黄原亮司さんです。

中国の上海で生まれ育ち、20代で来日した黄原さん。来日後は、名門オーケストラでの演奏に加え、ソロでの公演やCDリリースを行うなど、華々しい活躍をされてきました。今回は、これまでの黄原さんの音楽人生や、お部屋でチェロを練習するための防音の工夫について伺いました。

黄原さんがチェロを始めたきっかけ

──黄原さんがチェロを始めたのはいつ頃ですか?

私は6歳の頃にチェロを始めました。きっかけは、旧ソ連の有名なチェリストであるロストロポーヴィッチの上海公演です。親に連れられて観に行った公演での彼の演奏は大変素晴らしく、深く感動した私は「自分もチェロを弾いてみたい」と思うようになりました。

1970年代の中国はまだ貧しい国で、テレビやラジオなどもないような生活でしたが、幸運にも家庭が比較的裕福だったおかげでチェロを始めることができました。

ご自宅でチェロを弾く黄原さん

手書きの楽譜で音楽を学んだ幼少期

──はっきりと音楽家になろうと思ったのは何歳の頃でしたか?

本格的に音楽家を目指し始めたのは9歳の頃からです。きちんとチェロを習おうと思って、有名な先生に会いに行きましたが「あなたにチェロの才能はない」と断られてしまいました。

とてもショックでしたが、諦めずにしばらく探していると、遠い親戚に元ヴァイオリニストで少しチェロの知識もあるという方がいることがわかりました。彼は上海から500キロも離れた青島に住んでいましたが、怪我の治療のため年に2〜3回上海に訪れていたので、滞在期間中に彼を訪ねてチェロを教えてもらうことになりました。

彼はとても良い先生で、私のためにたくさんの楽譜を書いてくれました。今では考えられないことですが、当時の中国ではクラシックのレコードなど売っていませんでしたし、教本や楽譜もまったく出版されていませんでした。私がクラシックを学ぶことができる唯一の教科書は、彼が作ってくれる手書きの楽譜だけだったのです。

彼はドイツ人の先生にヴァイオリンを習っていたので、青島の自宅に数えきれないほど沢山の楽譜を持っていました。私が自分で楽譜が書けるようになってからは、彼が滞在の度に1冊だけ持ってきてくれる楽譜を少しずつ書き写させてもらい、次の彼の滞在までの数ヶ月はその楽譜を使って練習していました。

今のように白紙の五線譜などは売っていませんでしたから、真っ白な紙に定規を使って5本の線を引くところからスタートです。丁寧に線を引き、先生の楽譜を見ながら音符の一つ一つを正確に書き写しました。楽譜はペンで書いていたので、途中で音符を書き間違えると大変です。修正液などないので、ナイフを使って慎重に紙の表面を削って消し、その上からまた書き直していました。楽譜を写し終わったら、ちゃんと楽譜の表紙も作って、自分でひもを通して製本していました。時間をかけて手作りした楽譜はまさに私にとっての宝物でしたね。これらの楽譜は今でも大切に保管してあります。

黄原さんが自作した楽譜

音楽大学への進学と中国での活躍

その後、17歳のとき100人に1人受かるかどうかという難関試験を突破して上海音楽院に入学することができました。上海音楽院への入学後は、1年ほどの労働期間を挟みつつも5年間をかけて一生懸命にチェロの勉強をしました。努力の甲斐あって、22歳で音楽院を卒業した後、中国の名門オーケストラである上海交響楽団に入団することができました。

上海交響楽団に2年ほど在籍した後、広州の歌舞団に移籍し首席のチェリストとして活動しました。中国の歌舞団は文字通り歌と舞踊を演じる団体で、付属のオーケストラがつくのが一般的です。合唱団やバレエなど表現のジャンルが幅広く、総合芸術の公演がメインでした。

当時の広州は最先端の文化の発信地。イギリス植民地だった香港と近かったので多くの西欧文化が入ってきていました。また、経済特区として発展していた深センからは経済的にも良い影響も受けていました。文化的にも経済的にも進んでいた広州は、中国の人にとって憧れの街でした。広州は新鮮な文化や刺激を求めていた私にはぴったりの土地だったのです。

しかし、経済が発展するにつれ、中国では「さらなる経済発展を遂げてお金を稼ぐことが最優先」という考え方が芽生えてきました。それまで音楽は重要な芸術として給料や社会的地位が優遇されていましたが、次第に音楽ではお金を稼ぐことができないと判断されるようになり、どんどん予算が減らされてしまったのです。

「このままでは生活ができなくなるかもしれない」と危機感を持った私は、深く悩んだ末に、音楽で食べていくことを諦めてビジネスを学ぶことにしました。そんな私が目を向けたのは、同じアジアで高度経済成長を遂げていた日本でした。豊かな経済や進んだ文化に憧れていた私は、26歳のとき、日本へ行く決心をしました。

音楽を諦めて来た日本で再び掴んだチャンス

──それまで20年をかけて音楽に打ち込んできたわけですが、音楽を諦めてしまうことに迷いはなかったのでしょうか?

もちろん、音楽は好きでした。しかし、私は豊かな生活と貧しい生活の両方を知っていたので、まずはきちんと生活をすることが一番大切だと思いました。お金がないと好きなこともできなくなってしまうと考えたのです。

当時は海外留学が盛んで、周りの音楽家もオーケストラをやめて海外に行くようになりました。海外に住む親戚などを頼る方が多かったですね。残念ながら、私には日本で頼れる親戚や知り合いがいなかったので、チェロ以外の財産を全て売って日本への渡航費用や生活費を用意しました。

──財産をすべて売っても、チェロは手放せなかったんですね。

なんとなく、チェロを売ってしまったらもう永遠にチェロを弾けなくなってしまうような気がしていたんですよね。だからどうしてもチェロだけは手放せませんでした。

日本に来たばかりの頃は池袋や駒込の賃貸アパートに住んでいました。風呂なしの4畳半で家賃も1万5千円くらいの狭い部屋です。とにかくお金を節約したかったので、なるべく安い部屋を見つけて住み、家具や電化製品も人から譲ってもらったものを使っていました。日本語が一切分からなかったので、初めのうちはかなり苦労しましたが、何種類ものアルバイトを掛け持ちしながらなんとか生活していました。そんなつらい生活でも、チェロを手にとって弾くと心が安らぎ、穏やかなひとときを過ごすことができました。

来日からしばらくした冬のこと。アルバイトをしていたレストランの方から「君はチェロを弾けるのか。よかったら店で弾いてみないか。」と言われ、お店で演奏することになりました。お店での演奏を終えた後、ひとりのお客さんに話しかけられ、音楽や中国の話で盛り上がりました。話してみてわかったのですが、なんとその方は東京芸大の教授だったのです。私の話を聞いた彼は名刺を渡して「よかったらうちの大学に来てみないか」と声をかけてくれました。

一度は音楽を諦めた私でしたが、彼の一言が再び音楽の道へ戻るひとつのきっかけとなりました。今思えば、もし来日するときにチェロを売ってしまっていたら、きっと今の私はなかったはずです。偶然というのは面白いものですね。

現在の日本での音楽活動

──その後、日本でどのような音楽活動をされてきたのでしょうか?

レストランでの教授との出会いをきっかけに、一念発起して再び音楽を勉強して東京芸術大学の大学院に入学し、1992年に卒業しました。卒業後は東京交響楽団へ入団して演奏活動を行なってきました。現在はオーケストラでの演奏を中心に、個人での演奏会やチェロのレッスンを行っています。レッスンは自宅のマンションで行ない、1人対1人のマンツーマンや、4〜5人のグループで行っています。

このマンションに住み始めてから3年ほど。部屋の大変防音がしっかりしていて、窓も二重窓になっています。完全に窓を閉めてしまえば外の音はほぼ聞こえませんし中の音も漏れないので、自分の演奏やレッスンをするには素晴らしい環境ですね。部屋からの眺めも良く、天気の良い日には秩父山や高尾山が見えます。自然を感じながらのびのびと演奏していると気持ちが良いです。

普段ひとつの空間として使っているリビングはレッスン室を兼ねていて、パーテーションを使ってスペースを分けることができます。例えば、レッスン中に家族がリビングで過ごしたいときなどには便利ですね。逆に数人でのグループレッスンのときにはパーテーションをしまって、ひろびろとした空間で演奏することができます。

自宅のリビング兼レッスンルーム。眺めがよく開放的な雰囲気

──日本では賃貸マンションなどに住む方も多く、後から防音室を設置する場合も多いようです。

防音室は確かに便利で性能がいいので、人によっては利用するのも良いと思います。一方で音の響きや過ごしやすさということでいえば、そういった防音室が最適とは言いづらい部分もあるので、それぞれ自分に合う方法を採用するのがいいのかもしれません。

防音室を設置すると、構造上どうしても部屋が狭くなります。周りの景色などが見えないので、長い時間練習していると気持ちの部分がつらくなってくることもあるかもしれませんね。やはり音楽は演奏する人の内面が表現になるので、可能であればなるべく気持ちよくのびのびと練習できる環境を整えることも大事だと思います。

楽器を弾くために見つけた防音の工夫

──来日されたばかりの頃は賃貸アパートにお住まいだったということですが、部屋でチェロを弾くことはできたのでしょうか?

もちろん、きちんとした防音はされていなかったので、部屋で楽器を弾いて良いわけではなかったのですが「とにかく音が漏れなければ良いはずだ」と考えて、一生懸命に防音の工夫をしました。その頃は市販のミュートなどを買うお金もなかったので、タオルなど身の回りのものを使って試行錯誤していましたね。

チェロの駒をミニタオルで包みクリップなどで止める方法や、f字孔にタオルを詰める方法などを考えて、それらを組み合わせることでほとんど音がならないようにし、音を出さずに運指の練習をしていました。


タオルで弦の振動が抑えられ、かなり音量が小さくなる

防音として一番効果的だったのは大きなタオルでチェロをぐるっと包んでしまう方法でした。輪ゴムを使ってバスタオルをチェロに固定していき、ボディーの振動を抑える仕組みですね。かなり音が小さくなるので、学生の方など自宅で練習する方法を探している方にはオススメです。



ボディーの裏側。隙間なくいボディーを覆うのがポイント

日本の音楽家は比較的環境に恵まれている方が多いので、私のような防音方法を試したことがある方はほとんどいないと思いますが、運指や弓の使い方、全体の体の動きなど、テーマを絞ってしっかり防音すれば十分練習することができますよ。

音楽家は良い楽器を持つことが最優先

──黄原さんが使っている楽器について教えてください。

現在メインで使っているのは1898年のイタリア製、Camillo Mandelli作のチェロです。何年も前にアメリカでこのチェロを見かけ、直感的に「これは絶対に手に入れなければいけない楽器だ」と思ってその場で購入しました。この時代のチェロは大変高価ですが、そもそもこの時代の古い楽器は現在ほとんど残っていないため、なかなか見つかりません。この楽器に出会えたのはとても運が良かったです。

1898年イタリア製のチェロ。カミロ・マンデリ(Camillo Mandelli)作

──とても美しい楽器ですね。弓なども何か特別なものを使っているのでしょうか?

弓も1830年頃に作られた古いものを使っています。こちらはフランス製で日本で購入しました。やはり値段は高価ですが、他の弓とは響きの良さが全く違います。この弓を使えば自然と豊かな音色を出すことができます。

弓の良し悪しを判断するのは難しいのですが、弓のカーブの具合や重さ、木のしなり・粘りなど様々な要素が関わってきます。少し悩ましいのは、この弓を使うと音が鳴りすぎて、オーケストラで合奏する際に音に馴染みにくいということですね。そういう場合は弓を変えるなどしてハーモニーへの馴染みの良さを優先するようにしています。

フランス製の弓

音楽家は表現のためにも健康が一番大事ですが、その次に大事なのはやはり楽器です。特に弦楽器は良いものを揃えようとするとキリがありませんが、何百・何千時間と努力をした人であればあるほど、良い楽器を弾いた時のレスポンスが段違いに良くなります。良い楽器は弾き手にちゃんと応えてくれます。私の周りの弦楽器の音楽家はお金があれば家を買うよりも楽器を買うという人が多いくらいです。音楽を志すのであれば、まずは何とかして良い楽器を手に入れること、その次に住む場所や練習の場所を確保する、という順番ではないかと思います。

音楽家は常に変わり続けていくことが大切

──最後に、音楽家として活躍していくために黄原さんが大切にしていることを教えてください。

日本国籍を取得してから今年で28年。これまで中国出身の日本人として、周りの方々の応援にささえられ、特に教会、病院、地方など場所に関係なく演奏のチャンスをいただき、音楽の楽しさ・素晴らしさを伝えるための演奏を続けてきました。一度演奏した場所で何度も繰り返して呼んでいただくこともあり、とても嬉しく思っています。

同じ会場や同じお客さんの前で何度も演奏するのには工夫が必要ですが、私はその時々で違う演奏・表現ができると思っているので、今でも地方での演奏には熱心に取り組んでいます。また、たとえ多少条件や演奏環境が難しかったとしても、その逆境をエネルギーに変えて演奏するということが音楽家には必要ではないかと思います。そういった心の強さや音楽に込める情熱をその場にいる方々に伝えることができれば、音楽家としては成功だと思います。

──音楽を演奏する上ではとにかく演奏技術が大事だという考え方もありますが、そこから先の話として、何を感じてもらえるか、伝えるかということが大切なんですね。

技術があるのは演奏家の基本であって、当たり前のことです。演奏のテクニックは時間を使って忍耐強く練習すれば身につきます。大事なのは、そのテクニックを何に使うのか、誰に、どんなものを表現するために使うのかということです。

日本には若い方から年配の方まで様々な層の音楽ファンがいます。ならば、まずは自分の得意な音楽がどういった層の方々に受け入れてもらえるのかを考えることです。全ての音楽を得意になるのは難しいですから、自分のやりたい音楽・得意な音楽を一つ見つけて演奏しながら、少しずつ苦手なことをクリアしていく。そうやって常に変化し続けていくことが大切です。そうすればきっといつか素晴らしい音楽家になれると思います。

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編集部 田中
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