【根岸孝旨インタビュー】「とにかく異常なロック好きなことは分かった」と、初めて僕のベースを認めてくれたのが桑田さんでした

日本の音楽シーンを支えるミュージシャンを「カナデルーム」がご紹介するPLAYER’S FILE。第5回目はベーシスト/プロデューサーの根岸孝旨さんです。サザンオールスターズ、藤井フミヤ、奥田民生、吉井和哉などのレコーディングやライブをロックなベースプレイでがっちりサポート。CoccoやGRAPEVINEを世に送り出し、くるり、aiko、木村カエラ、一青窈、miwaなどもプロデュース。ロック好きなら知らない人はいないはず!根岸さんの音楽人生とともに、ベースプレイ&音づくりのスタイルを探ります。

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高校時代、後にプロになる仲間と出会い、ベースを持たされた!?

●根岸さんといえば、音楽ファンには「ロックな音をつくる人」のイメージです。どんなアーティストに影響を受けてきたのですか?

確かにビートルズとザ・フーが好きすぎたので、そのイメージだと思います。ピート・タウンゼント(ザ・フーのギタリスト)になりたかった!でも絶対あんなバンドできるわけがない、あんなハデにギターやドラムを壊していたらお金が続くはずがない(笑)。その一方でなぜかカーペンターズも大好きでした。

●というと元々ギターだったのですね。ベースを始めたのは?

高校生のときになります。じつは僕にベースを持たせたのはレベッカのドラム、小田原豊くん。僕は埼玉県出身なんですが、昔埼玉はロックのライブハウスがなかったので高校生同士が市民会館とか県民ホールを借りてライブをやっていました。そのときの対バンに小田原くんがいて「あいつだけ違うな」と声をかけたら、「ギターいらないんだよ、ベースが欲しい」っていうから、「そうか、やったことないけどやってみよう」と。のちにスターダスト・レビューのパーカッションになるVOHさんのバンドのベーシストの方から、フェルナンデスのフレットレス・ベースをお借りして始めました。

●レベッカもスタレビも埼玉出身ですよね。高校生の頃から根岸さんの音楽仲間だったのですね。

小田原くんとはザ・フーとカーペンターズが好きというのが一緒なので、二人でカーペンターズ研究をしていました。「クロース・トゥー・ユーはなぜハイハットが2つ入っているんだ?」「ハイハット2つ?…ほんとだ!」(笑)。部屋へ小田原くんの好きなサンタナのレコードを聴きにいったり。埼玉はウラワ・ロックンロール・センターがあったんで、よく田島っ原にライブを観に行ってました。ガラ悪いんですけど面白い人たちが呼び合っちゃったみたいな感じでしたね。

「音楽がやりたい!聴きたい!」だから悪知恵を働かせた

●高校時代の部活では何をやられていたのですか?

高校1年から2年の前半まではクラシックギター部。受験で歌が必要と聞いて混声合唱部に鞍替えしました。混声合唱部は埼玉で一番だったので、やってたら面白くなってきて。

●根岸さんが合唱部だったとは意外です。

ピアノもやりました。よく大宮の親戚の家にピアノを弾かせてもらいにいっていたんですが、ちゃんと習ってみたかったので音楽の先生に相談したら、今から勉強すれば小中学校の音楽の先生ならなれるかも、と隣町の高校の先生を紹介してもらいました。それが高2のときでした。

●いいお話です。根岸さんはロック、ギターだけじゃなかったのですね。

音楽なんかでご飯食べられるわけないと母親が言ってましたから。それでも、とにかく音楽がやりたい!聴きたい!ばっかりで、やるための悪知恵を働かせていました(笑)。僕、高校では皆勤賞もらったんです。なぜかというと、学校に早く行くと音楽室や視聴覚室を自由に使えるから。朝7時に学校にいってピアノやギターを弾いてました。8時になると合唱部やクラシックギター部が来ちゃうから。

●大学時代はどんな音楽活動をしていたのですか?

大学の合唱部はレベルが低いから入部せずに、アマチュア日本一の合唱団に入って20歳まで続けました。それから芸能山城組っていう民族音楽集団にも加入しちゃって。卒業したら何もできなくなるから学生のうちは何でもやってみようと。

●民族音楽もされていたんですね。バンドのほうは?

大学1年のとき小田原くんと始めたザ・フーみたいなバンド(POW!の前身バンド)でコンテストに出たら準優勝できました。その時の対バンにいた、江川ゲンタくん(オルケスタ・デ・ラ・ルス)、有賀啓雄くん(小田和正ベース)、淡谷三治くん(MENS5)と仲良くなった。この後ユイ音楽工房の方が目をかけてくれて、大学3年から4年にかけて太田裕美さんのバックバンドをやらせていただくことになりました。当時はプロになる気なんてまったくなかったのに、いずれプロになるやつが集まっちゃったので自分も同じ感覚でいたのかもしれない。

あと、大学が日大芸術学部だったので、ヤマハの池袋東ショップによくいってました。子供バンドカシオペア爆風スランプの前身の爆風銃(ばっぷがん)とか当時のミュージシャンのたまり場でした。ファンキー末吉さんと知り合って爆風銃のローディをやって、あと、YENレーベル(高橋ユキヒロと細野晴臣が作ったレーベル)でバイトしていたので、ゲルニカタンゴ・ヨーロッパのローディ、YMOのレコーディングのローディもやりました。そうやってスタジオに潜り込んでいった。

●卒業後はミュージシャンの道へ?

音楽だけで食っているはずないだろうと思いつつもミュージシャンの道を選んでみたら、案の定、仕事があったりなかったりがひどかった。20代前半は危ない一歩手前のバイトとかしながら、スタジオミュージシャンをしてました。最初は先輩が怖くて怖くて(笑)。僕がミスって止めちゃうと、「てめえ何止めてんだよ、こっちはケツかっちんなんだよ!」ってサックスのおじさんに思いっきり怒鳴られたり。そういう時代でしたね。

根岸孝旨 ベース
スタジオ時代は怖い先輩がたくさんいた、とおっしゃる根岸さん。

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サザンの桑田さんが初めて僕のベースを認めてくれた

●自分のバンドでデビューしたいという想いは…?

スタジオミュージシャンをしていると余計にバンドでデビューしたくて。こういうのじゃなくてロックがやりたいんだー!と。それでもスタジオの仕事で、小林武史さんとかいろいろな人と知り合っていくわけです。さすがに「もうミュージシャンなんてやってられない」と思っていたとき、ビクタースピードスターのサザンオールスターズを育てた人から「俺の下でサザンやらないか?」というお話をいただきました。

●え?サザンのスタッフ側のお話ですか?

そうですね。それでミュージシャンに未練がありつつも返事を待ってもらっていたら、返事の約束の数日前に小林武史さんから「ベース弾かない?」って言われて行ってみたらこっちもサザンで。「自由に弾いていいから」と言われたので、ミュージシャン辞めるつもりで好き勝手に弾いたんです。そうしたら桑田さんに「お前どこに隠れていやがった?また呼んでやるから覚悟しとけよ!」って(笑)。

●根岸さんとサザンにそんなエピソードがあったとは…。

それからは立て続けにレコーディングに呼んでもらえるようになり休養中の関口和之さんの代わりにライブにも出演したりなどで3年間。そのおかげでいろんな人に「あいつは誰なんだ?」と言われ、ようやく自分のプレイスタイルで仕事に呼ばれるようになりましたね。

奥田民生くんと自身のバンドDr.Strange Love

●その頃ご自身のバンドはどうなっていましたか?

小田原くんとのバンドは契約までいかなくて、その後は古田たかしさんと長田進さんと知り合って3人でやっていました。それがDr.Strange Love(ドクター・ストレンジ・ラブ)。僕にアレンジの仕事が来るようになると3人でいろんな仕事をやるようになり…。風向きが変わったのは藤井フミヤくんのツアーを3人で回ったとき。これがいろんなところで評判になり、聞きつけた奥田民生くんが「俺ともやってくれないか」と声をかけてくれた。

●奥田民生ファンならDr.Strange Loveを知らない人はいません。

奥田民生くんのサポートはDr.Strange Loveでその後10年間やることになりました。そこからDr.Strange Loveとしてデビューしないか、という話がきて。そのとき僕は34歳。「34歳でデビューできるんですか?」っていう(笑)。だって他のメンバーには37歳もいましたから。それが’97年だったかな。

ベースのプレイスタイルは「思い切りひっぱたく」⁉

●根岸さんのプレイスタイルはどんな風にできあがったのでしょうか?

いまだに自分のプレイスタイルってわからないけど、自分は器用ではないのでジャズフュージョン系は聴いても、やりたいとは全然思わなくて。でも派手なのはおもしろいからスライ&ザ・ファミリーストーンとかクインシー・ジョーンズを聴いたら「ベースが変な音しているぞ、どうやって弾いてるんだ?」と。探ってみたら「えーっ!」って(笑)。日本では誰かやっているのかなと思ったら、当時は後藤次利さんと何人くらいしかいなかった。

●チョッパーですね?

そうチョッパー。当時はまだやってる人は少なくて、一番バリバリだったのが次利さん。ベースを真剣にやろうと志した最初のころによく観に言ってたのが樋沢龍彦さんだったので「ベースは思いっきりひっぱたくんだ」と思い、ライブで弦を切るのを売りにするくらい思いっきり力づくで弾いてました。その後憧れの大先輩たち、岡沢章さん、高水健司さん、美久月千晴さんらと話せるようになると、「先輩たちそんな風に弾いてないぞ?」と気づいた(笑)。で力抜いて弾けばいいと思ったんですが、それはそれで自分っぽくないし。でその分のパワーで動き回ろうかなと(笑)。

●どんなベースをお使いでしたか?

食べていけるかわからない時代は、楽器店の安売りセールで5,000円のネックとかボディ、2,000円のピックアップだけを買ってきて組み立てていたけど、いい音なんかするわけなかった(笑)。ちゃんとしたので最初に買ったのはVOXのベース。ローリング・ストーンズのビル・ワイマンが60年代に使っていたティアドロップの形の次のモデルです。唯一、僕のアルバイト代で買えた値段のものがVOXだった。いまでも持ってますよ。

根岸孝旨 ベース インタビュー
これが根岸さんのVOXベースだ!

サザンのときに持っていったがこのVOXでした。当時、日本で持ってる人少ないしレコーディングで使われたこともなかったから、音から何から桑田さんに「お前はなんなんだ?」って。「とにかく異常なロック好きということは分かった。珍しいやつだな、今度家に来い」ってことに(笑)。

●根岸さんと桑田さん出会いに一役かったベースなのですね。今一番使っているのは?

Fenderのプレべ(Precision)ベースがどんな音楽でも使えます。僕のは’66年もの。あと、ロックが好きな人はやっぱりプレべを低く持つのがパンクだぜ!っていうイメージあるし。ロック的なドスというかエレキベースらしいところは、プレべが一番じゃないかな。JACOやマーカス・ミラーといったスターベーシストとかスタジオミュージシャン、ジャズベースプレイヤーにジャズべが多くて、プレべだとチャック・レイニーをはじめとする癖の強い個性重視の人っていうイメージだけどね。

●根岸さんモデルのベースがあったら教えてください。

じつは6年くらい前にヘルニアのキツいのをやって、2か月間まったくベースが弾けない時期がありました。軽いベースが欲しいって思っていたら、種子田健くんに「俺のベース軽くていいですよ」と。それが山口県のカスタムオーダーのメーカー、Provision Guitar(プロビジョンギター)でした。そこで、「日本で一番軽いプレべを作ってください。ちゃんとした材で」とお願いした。だいたいベースって4キロ前後で、3.8キロ切ると軽いほうになりますが、僕が作ってもらったプレべは3キロ。ストラトキャスターより軽い。みんなに「こんなのベースじゃない、中空洞なのか?」とか言われちゃった(笑)。

根岸孝旨
Provision根岸孝旨氏使用モデルPJGB-TN#001/FR [Fiesta Red]

そうして完成したのが根岸孝旨モデルです。フェンダーのジャズマスターの雰囲気のボディにJBタイプのピックアップ、ベッドはテスコを意識してみました。音はジャズベースをワイルドにしたといった感じでしょうか。ちなみにどなたでも買えますので、ぜひ、Provision Guitarまでお問い合わせください。Provisionめちゃくちゃいいですよ。とくにジャズベース系のつくりがはっきり進化してます。じつは5弦ベースのモデルもProvisionと進めています。

元祖・宅録世代の集中力は半端ない!

●音づくりや曲づくりはどんな風にやっていましたか?

十代後半から当時発売されたばかりのヤマハのデジタルドラムマシンと4チャンネルのカセットMTR、TEAC 144を買ってピンポンしていました。コーラスみたいなこともできるしおもしろくて。

●お部屋でやっていたのですか?

親が帰ってくるまでにやらなきゃいけなかった。学校や大宮の貸しスタジオで歌だけ録って、部屋でTEAC144に流し込む。いわゆる元祖宅録。そうやって宅録をやっているとバランスを取ることとか覚えるんですよね。とにかく最初に一番いい音で録らないと台無しなるとか。誰も教えてくれないから「こないだよりいい音にならないかなあ」と自分で試行錯誤してやるしかない。雑誌もほとんどないから先輩に聞くしかなかった。

今のPro Tools、Logic ProとかCubaceみたいに、録ってから後でバランスとかできない。1個1個バランス決めてかなくちゃいけないんで、その集中力たるや半端なかった!失敗したら一からやり直しなんでやり直しがきかない。そういうのをやってきたから、今なんでもパッとできちゃうことしか知らない人との差はけっこうデカいと思う。

●今はその宅録、DTMが全盛になっていますが。

音楽にお金を使ってくれる人が減って、製作費を抑えなくてはいけなくなってしまった。僕らの周りでも家でそこそこできるようにしてますが、それでもやっぱりレコーディングスタジオでやるのとはたいぶ違う。音の豊かさはスタジオの広さに比例すると思うし、それは事実です。アビーロードスタジオで録ったビートルズの作品を聴けばわかると思う。

●プロデュースのご予定は?

UEBOというシンガーソングライターをプロデュースしました。技術が上手いしとってもいいヤツです(笑)。

●昨年、Dr.Stranage Loveが再開ということでしたが…。

延び延びになっていますが、今年の秋くらいからスタートしようと思ってます。

●今後はどのような活動に力を入れていきますか?

できるだけ自分たちの作品をつくらなきゃいけない。仕事だけじゃなくて自分の音楽を表現する場を必ずやってないといけないと思ってます。もう一つのバンド、西川進くんとやっているJUNK FUNK PUNKも再始動するのでトラック製作中です。ストレンジラブは打ち込みは一切やらず、ジャンクはドラマーなしの基本打ち込みでギターとベースは絶対に生、というコンセプト。じつはオアシスファッキン・イン・ブッシーズに触発されて、ロックの人が打ち込みやるのいいなと始めたバンドです。ジャンクのミニアルバムリリースライブが7月7、8日にあります。

その他に、桜新町のNEIGHBORというライブレストランで、2か月に1度、僕のプロデュースデーをやっていこうと思ってます。次は7月22日に夕食ホットと。彼らもおもしろいバンドですよ。

●根岸さんのやりたい音が聴ける機会ですね。楽しみです!本日はありがとうございました。

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この記事を書いた人

編集部 中根
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